道徳が得意だった小中学生時代
こんにちは。道徳が「教科」になることは以前から言われていましたが、ついにその指導要領案が決まったようです。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000740&Mode=0
↑のURLから指導要領が読めます。
僕も内容を読みましたが、「うーん……」という感じです。
「心や自らの弱さを克服して気高く生きようとする心を育てること」とか「自らの将来の生き方を考え主体的に社会の形成に参画する意欲と態度を養うこと」の部分には引っかかります。
これって、どう教えるんでしょうか。さっぱり分かりません。また何が、「気高さ」や「主体的」なんでしょうか。
とりあえず、今日はその辺りの議論は横に置いておき、今日は、自分自身が小中学生だった時の道徳の時間のことについて書きます。
たぶん私は、道徳が得意な子供だったと思います。私が受けていた道徳の時間の進め方は、『教員が何かしらの物語?(アスリートのサクセスストーリーとか戦争のこととかいろいろです)を一通り話して、それについてどう思ったかとかどの人物に共感するかを議論する』というタイプが多かったように記憶しています。
私は、大抵の時間ですぐに手を挙げて何かしらの意見を言っていましたし、他の子がどう感じるのかを聞くのが面白かったのか、結構積極的に参加していました。
逆の子ももちろんいましたが、そのような子が意見を言わないというのはあり得ません。
何故なら、道徳の時間は、「全員が挙手して意見を言わないといけない」のです。今思えばおかしいんですけど、当時はそれについて疑問にも思わず、「意見言えよww」みたいなことを意見を言わない子に言ってました。
また、めったにないことですが、「ある意見(いわゆる教員が好まない)を言って怒られる子」というのもいました。
今思えば、上記の事はおかしいことなのですが当時はそんなこと微塵も思いません。
「意見を言わない子が悪い」とか「さすがにその意見はねえだろww」と思っていました。そのくせ、自分の意見は正しいと思い込み、いい意見を言えた時は快感を覚えていました。
私は、道徳が教科になるならないにしてもこの点に強い危機感を感じています。一応ながら道徳の時間は、「他者に耳を傾けよう」とか「他の人の意見を尊重しようとか」いう目標があります。
しかし、実際には小中学生の時の私のような子がいるのではないでしょうか。自分の意見は良い意見で、素晴らしいと思っちゃう子が。この誤った認識に後々、気づけばいいんですがなかなかそうもいきません。
私自身この問題意識に対する解答を持ち合わせていないのが歯がゆいですが、とりあえず先生の側この辺りには十分に注意して道徳をやっていただきたいものです。