某一学生の雑記

日々考えてることを書きます。貧困問題や労働問題を一応中心に学んでいます。個人的には、メディアやジャーナリズムや教育に興味ありです。

大学の授業って出なきゃいけないの?

今日は、一日比較的時間があったがこういう時に限って、人は非生産的な時間を過ごしてしまう。しかし、そういう時間がいいのである。

 

今日のテーマは、「大学の授業」である。そして、その中でも大学の授業に出なきゃいけないのかというのがテーマである。何故、このようなテーマを取り上げるのかというと、某大学教授が「学生が授業に対する意識が低すぎる」的なことをおっしゃっているのを目にして、それに対して多少の反発の気持ちをもったからだ。

 

まず、本題に入る前に、現在の私の大学の授業への出席する姿勢を簡単に述べておこう。

 

私は、基本的には履修する授業を決める際に、その授業が出席を取るか否かを重視する。出席を取るのであれば基本的にはその授業は敬遠する。だから、私が履修する授業は基本的に出席をとらない。そのため、授業に出席するということは成績の評価に含まれないので無理に授業には出席しない。回りくどくなったが、要は授業には基本的に出席しないということである。

 

せっかく、親にお金を払ってもらって大学に通わせていただいているのに授業に出席しないとは何事だ。ちゃんと授業に出席しろ。こう、言われそうだが結構な数の学生は授業に出席していないので特段、私が責められるということにはならない。

 

先に、結構な数の学生が授業に出席しないと述べたが、どうして授業に出席しないのだろうか。これは、いろいろ理由があると思うが、本人の怠慢(寝坊や飲みすぎた)やバイトや就活などが挙げられるだろう。本人の怠慢に関しては若干の議論の余地はあるが置いておく。バイトや就活なんかもまあとりあえず置いておく。どれも、私が授業に出席しない理由にあてはまらないからである。

 

では、私が授業に出席しない理由は何か。それは、「大学の授業に出席してもあまり有益ではない」からである。もう少し述べると、面白くないからである。例えば、教授が一方的に話すだけでよく分からないということである。この辺については、自分の勉強不足もあるだろうがそれだけではないとも思う。

 

そこで今回は、夏目漱石の三四郎の中の大学の講義についての記述を取り上げながら大学の授業に出席する意味的なことを考えていきたい。三四郎のストーリーに関しては、省略するがその中には、大学の講義についての記述が何か所かある。

 

主人公の三四郎が与次郎に、「一週間の間に講義に40時間ほど出ている」と話をしたところ、与次郎は、「馬鹿」と言い、「下宿のまずい飯を一日に十返食ったら物足りるようになるか考えてみろ」と三四郎に言う。さらに、三四郎は与次郎に、「どうすればいいか?」と尋ねると与次郎は、「電車に乗るのがいい。~活きてる頭を死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるのさ。」と言う。

 

そして、三四郎はこの後、図書館に通いだし講義に出る時間を半分ほどまでに減らしてしまう。また、しばらくして、三四郎が、「最近、講義が面白くない」と与次郎に言うと、「講義が面白いわけない~愚の骨頂だ。彼らの講義は開講以来こんなもんだ。今さら失望したってしょうがない」と与次郎に言われてしまう。

 

大体、これらが三四郎の中で夏目漱石が書いている、大学の講義に関することである。ただ、夏目漱石自身も大学教授をやっている中で、その講義に関して学生からいろいろと不満はあったようだが。その点についてはひとまず置いておくとして、ここで書かれている要点をまとめると次にようになるだろうか。

 

・大学の講義はそもそも面白いわけがない

・講義に出たからといって知的欲求が満たさることや満足感を得られることはない

・講義には出ずに、図書館に行く方がよっぽどいい

 

要点を順に取り上げていこう。まず、「大学の講義はそもそも面白いわけがない」という点だ。三四郎は今から100年以上前に書かれており、当時の大学の授業と今の大学の授業を単純に比較することはできないが、この中で書かれているような大学の授業は結構あると思う。それは、教授が一方的に学生に話し続けるというような授業のスタイルだ。この手の授業を私もいくつか受けたことがあるが、たいていつまらないしよく分からない。そんな授業ならば行く気はしないしそもそも行く必要性があるかどうかも怪しいところだ。

 

2つ目の、「講義に出たからといって知的欲求が満たされることや満足感を得られることはない」とういのは、何かのセミナーに行ったからといって力がつくわけではないというのと似ているだろうか。大学の授業に出たからといって必ずしも知識が身に着くわけではないし、過度な期待は禁物であり、授業に出席することが目的となってしまってはいけない。

 

3つ目の、「講義には出ずに、図書館に行く方がよっぽどいい」という点であるが、これは先に述べた二つの点とも関わるだろう。大学の授業はつまらないしよく分からず、知的欲求は満たされないというと、本を読むしかない。どの分野にも良書というのは存在するし、つまらない講義を聞くよりはよっぽど学ぶことが多いだろう。そして、この3つ目の点を実践している人を私は何人か知っているが、その人たちはなんというか、教養に溢れていたり、よく物事を知っているのである。

 

以上の3つの点から見えてくるものは何だろうか。それは、授業に出席するとかしないとかの前に、そもそも学生が学ぶということがどういうことかを理解しておかなければならないということである。しかし、残念ながら大学に入るまでに学ぶことがどういうことかを理解している人は少ない。というか理解する機会がない。小学校~高校まではいかに効率よくよい成績をとるかというところに重きが置かれており、学ぶことはどういうことかというのは蚊帳の外である。そういう環境で高校まで(勉強)してきて、大学に入るとその違いに戸惑う。そして、学ぶということがどういうことか分からないままの人は、とりあえず授業に出るか、学ぶことをやめる。

 

これでは、冒頭に述べた、「学生の授業に対する意識が低い」といったことは全くの的外れだと思う。まず、大学の先生方が学生に対して学ぶということがどういうことかを教える必要があるし、それを教えずに授業に出席しろとかもっと勉強しろとか言われてもという感じである。大学の授業に出席する以前の問題をどうしていくかを検討していかなければないらないのではないだろうか。

 

参考文献

三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)